映画『機動戦士Ζガンダム 星を継ぐ者』:おかわり
- 2005-07-04 20:23
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東京ファンタスティック映画祭におけるスポット上映鑑賞から半年あまり(関連記事)、先週末にやっと一般公開を観てきました。
前回の時は(一応)一般公開日は未定、次に観られるのはいつのことやらということで、どうしても TV 版との違いを追いかける方に意識が向きがちだったのですが、今回は純粋に作品としてどうか
という点に主眼を置いて観ることができました。TV埼玉でのリハビリの成果あって、無理に追いかけなくても違ってたら分かる
と気楽になったところもあったかな。
行く前はもっと今回が『Ζ』の初見であるという人に観せるのは厳しい
という印象が強くなるかと思ったんですが、結構そんなこともなかったです。ファンタで観た時これ残したのかぁ
と頭を抱えた MP をモビルスーツで脅すエピソードについて、先に手を出したくせに『殴る人は怖い』とか抜かすバカガキが無茶しよる
からそもそも相手が先に失礼な振る舞いに及んだのに一方的に悪者扱いされた少年がちょっとだけ溜飲を下げる
という表現になっていることに気づいたりとか、知っているが故に固定されたイメージが訂正される瞬間もありました。ただ、逆に初見より疑問に感じる部分も多く出てきました。
初見の時、画面を見ていて何だか慌しく感じる理由は14話までに死ななきゃいけない人(苦笑)がばたばた死ぬからだと思っていたんですが、今回は両親が殺される辺りから大気圏突入までの間でダレる印象がありました。テンションは高いんだけど、同じ調子がずるずる続いていくというか。次から次へと戦闘シーンが出てくるし。実際には戦闘ばっかりやってるわけでもなくて、途中で例のシャア・アズナブルという人
の話も挟んだりはするんだけど、これはこれで何か浮いちゃってるんですよね…。これはもともと TV 版でも感じていたことだけども、やっぱりあそこでシャアの話が出るのは変。ていうか、伏線として必要なのは分かるがプロットとしてうまく埋まってない。作画や台詞回しをガラッと変えた今回もあまり成功しているとは言えないと思いました。
慌しさを感じるもうひとつの理由は、実際に TV 版の情報量をどうにかして詰め込もうとしているのを画面から感じてしまう、というのもあった気がします。特に要らない
と思ったのがライラとジェリドの絡み。
ここのエピソードは TV 版ではいい男になってくれれば寄りかかって酒が飲める
というライラの名台詞があって、これひとつで二人がお互いを意識する理由が十分説明されていたのに、映画ではジェリドの視野の狭さを指摘する台詞だけになっていて、ジェリドがライラに感じさせた嫌悪以外の「何か」の表現が不明瞭になってしまっています。しかもジェリドは大気圏突入でカクリコンの最期を見届た際にカクリコンとライラのかたきは必ず討つ
みたいなことを言いつつ、地上に降りたらライラはどこだ!
とか生きてる前提としか思えない口ぶりで話し始めるし…TV 版の汚名挽回
発言を初めとするとっちらかりキャラ再び。…まさか、それが彼のアイデンティティとして意図されているということなのか?
ライラとカミーユの対戦も、TV 版ではカミーユに初めて激昂の末の子供のけんかとは違う「実戦の緊張感」を体験させるエピソードだったはずなんだけど、あんまりそういう印象がないまま素質だけで勝っちゃいました
になっちゃってるし。こんな中途半端な詰め方するんだったらライラのエピソードはばっさり切ってほかに時間を使ってくれた方がよかったんだけど、ライラが出ないとガルバルディβの出る幕がなくなるしな…プラモあっての『ガンダム』ってか。
さて、唐突ですが、ふうこが大学で取った一般教養科目に舞台芸術を専門とする客員教授による「芸術論」というのがありまして。まぁパンキョーなんで居眠りなどしつつ適当に受けていたんですが、ひとつだけ印象に残っている話があります。曰く、舞台芸術においては、客が目の前に提示されたものを積極的に『何かに見なす』という態度がとても重要だ
と。そりゃそうだ。舞台においてただの板切れがこなすことのできる役割は数限りないが、「舞台を観る」というフィルタを取っ払って見れば板切れは板切れでしかないわけで。王様はやっぱり裸だ
という態度ではとても舞台を楽しむことはできないでしょう。
アニメも舞台と同じく、根本的にはデフォルメという名で「見なし」を要求する要素がふんだんに盛り込まれているはずではあるものの、現存し得ないものを目に見える形にすることができる
というその特性からか、視聴者はアニメを観る際に自分が何か努力したり協力したりすることが必要だとは必ずしも思っておりません。さて、アニメは観るものに対して、どこまでその協力を強いてもいいものなのでしょうか。
つまり何が言いたいかって言うと、事情を知らないで観た人に必ず全部作り直せばいいのに
と言わせる作画クオリティは是か非か、ということなんだけど。
これに関しては、自分には答えはありません。分かっているのは、三部作である本作のパート2も私は必ず観るだろう、ということだけ。
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Received Comments(投稿順)
遅まきながらおつかれさまでしたー。
「シャア・アズナブルという人の話」については、自分はまだTV版の方が自然に思えます。劇場版で何故あぁなるのかという意図は分かるけどおかしさが先に立ってしまい。
ジェリドとライラについては、よろしければΖヒストリカ01も見てやってください。ジャブローでの台詞は、「カクリコンの仇は取る。ライラと一緒にな!」なので、この時点ではジェリドはライラはまだ生きていると思っていて、彼女と一緒に戦おうとしています。他の台詞では倒置を直してるのに、ここだけ倒置が残ってるから聞きにくいんですね。あーでもライラとの決着についてはほんと同感ですよー。ま、あれが見たいならTV版見なさいなってことなんですね(^^;
まとめ作業、大変おつかれさまでした。
取り上げて頂いて光栄です。
>「シャア・アズナブルという人」
そうですねぇ。どっちがましかって言うと、TV 版ですかねぇ。
今、TV埼玉での再放送で「レクリエーション」発言とか出てきた頃なんですけど、劇場版のレコアさんの「お尻」発言とか、あの辺の洒脱な感じを出そうとして失敗してる感じがして笑う反面痛々しいです。そういえば今まではっきり自覚してなかったけど、富野ガンダムってこういうところがいいんだよなぁって再放送で認識中のふうこです。
>ライラと一緒にな
って、「ライラと共に」ってことだったのか!(@@;)
すっかり「ライラの仇も一緒に」だと思い込んでましたよー。
でもまぁ、気になってるのは TV 版と違うことではなく、映画版でのライラの役割が見えてこないことだったりします。
って、実はヒストリカ 01 読み直して「ああ」とは思ったんですけど、正直今の演出だと「お前には無理だ!」のひとことにきちんとした重みをつけるのは無理筋だと思いますし、説明されないと分からないことを「分からん」と言うのは観客の特権ですので、「悪いね」って感じです、ハイ。