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刑罰は誰のものか

もはや遅きに失した感もありますが、一応自分の中でのまとめはこうなりました、ということで。

宅間元死刑囚の刑執行について書いた記事には、こんな場末のブログであるにもかかわらずたくさんトラックバックを頂きまして、世間で物議を醸している様を体感できました。そんな中で、ふと疑問が湧いてきました。それは、こんなことでした。

死刑とは、本当に「国家による復讐」としてあるものなんだろうか。

トラックバックを下さったうじさんは、現在の日本の極刑のあり方について、日本は法治国家であり、刑事上最高の刑罰は死刑ってことになっていて、『罪を憎んで人を憎まず』の精神により残虐な刑罰は禁止なのであると解説して下さいました。そういう分類は理解できるものですが、では「死刑」とは「残虐刑」の代わりにあるものなんでしょうか。死刑を「是」として残虐刑を「非」とする要素は、一体何なのでしょうか。

そして、ふうこが最終的に考えたのは、残虐刑になくて死刑にある「意味」とは、死刑になるまでの間の「生」なのではないか、ということでした。

死を望んでいれば、ただ生き永らえることが苦痛だろうし、望まなければ「その日」を思って怯え暮らすことになる。生きて味わうその精神的過酷さこそが「死刑」のもたらす「拷問」で、そんな中をとにかく生き続け、受刑者が自分の罪と真に向き合うこと、そしてこの極刑を行使する私たちはそれを手助けするための道を探すこと、それこそが唯一死刑という刑罰から何かを生み出す道なのではないかと。そこまで頑張って、受刑囚が過ちに気づいたからと言って世界が変わるわけではないかもしれないけれど、罪に気づいた囚人にはまた新たな拷問が待っているものではないかと思うのです。「罪の意識に苛まれる」という拷問が。それは、人の命に値する苦しみではないでしょうか。

そういったことから、私の中での答えは「刑罰とは、あくまで受刑者のものでなければならない」ということなのだと思い至りました。

その観点からすると、宅間元死刑囚は「彼のもの」であったはずのものを早々に奪われたことになります。特に彼は自分の過ちの原因を他人に求めていく人でした。そういう人にこそ「死刑」という過酷な「条件」をつけて、長い時間を与える必要があったんじゃないか。社会生活を営む上で積み重なっていくしがらみを断ち切った空間で、とことん自分自身と向き合わせる必要があったんじゃないか。なのに彼にはたった1年しか与えられなかった。私が本件についてすっきりしなかったのは、それが納得いかなかったからなのだろうと思います。

それはそれとして、「死刑=国家の復讐」説を否定すると、当然彼のために謂われのない重い十字架を負わされた被害者のご遺族の心を何が慰めてくれるのかという疑問が出てきます。それは、第3者の立場ではまだとても見つけられない、重い課題です。理不尽に奪われたものを取り返すこともできず、最初からなかったことにもできず、とにかく背負って生きていくしかないという運命はあまりに苛烈です。責めるべき相手を持つがゆえに尚更、湧き上がっても押さえつけるしかない怒りが心を苛む日々。誰の人生にも、そんなことが起こっていいはずはないと思うけれど…


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