死出の旅路は現世への謝罪となりうるか
- 2004-03-09 21:05
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死んでお詫びすることを無責任という人は多いけれど、その批判は無責任じゃないのか。と、思う。
鳥インフルエンザ問題の渦中にある浅田農産の会長夫妻が自殺した事件を受けて投稿されたものです。何故に死んでお詫びすることを「無責任」と批判するのが無責任だと考えておられるのか、この文章からは分かりかねますが、ふうこ的にはどっちも的外れだろうと思うんです。
大体、社会通念というフィルタをとっぱらってみれば、何か他人の不利益になることをしたからといって他人が納得してくれる形でお詫びをする義務などありません。かといって、これからも社会の一員として生きていくなら周囲と折り合わなければ何の得もないので、頭を下げて自分の非を認め、再び社会に受け入れてもらえるように努力をするのが常識に沿った行動というものです。たまには二度とお天道様の下を歩けない(もしくは歩かなくていい/歩くつもりがない)のをいいことに頭を下げない鉄面皮もおりますが。要は、お詫びという行為は本質的には「自分が(他人とともに)生きていくため」にするものだということです。
「お詫び」がこれからも生きていくためのものだとすると、「死んでお詫び」という行為は死んでしまうが故にお詫びではない、言うなれば単なる逃避だということになります。お詫びになっていないのだから、残された者に「無責任な行為」と受け取られても当然でしょう。が、逆に言えば「お詫びする責任」なんつーものはないので、「無責任」という批判も結局は逃げた背中に投げつける空しい石つぶてでしかありません。どっちにしても残るのは「あの人はもういない」という事実のみで、社会的な善悪を含めた「真実」などはもはや推し量る術もなくなるのです。
さて、ふうこの周りにも何人か、愛する家族や恋人を捨てて自ら彼岸に旅立った人がおります。彼らのことを「打たれ弱い」とか「無責任」という言葉で責めるのは簡単ですが、やっぱり空しい石つぶてです。誰かに「お詫び」する必要がなければ尚更、彼らの命は彼らのもので、どう使おうと勝手ですから。後に遺された、彼の人に繋がる全ての人を襲う無力感、その死によって客観的に是非を問われることなく「加害者認定」された者の胃の腑に残る鉛のような感覚。楽になったのは彼の人だけだと思えば余計腹も立ちますが、この世に生きている間に彼らが見ていた景色は、今私が見ているものほど美しくはなかったのだと思うと振り上げた右手が行き場を失ってしまう。いつでもそんなやるせなさにとらわれるニュースです。
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